「共感力がない」と悩むあなたへ。
誰かの言葉にピンとこなかったり、「なぜそんなふうに感じるの?」と戸惑った経験はありませんか?
それはあなたが冷たいわけでも、相手が過敏すぎるわけでもないのです。
実は、人の「感じ方」は一人ひとり全く違います。たとえ同じ場所に立ち、同じ風景を見ていたとしても、その“見え方”や“受け取り方”は、まるで別の物語。
この記事では、そんな「感じ方の違い」を理解する力──つまり共感力を、「登山」という体験を通して深掘りしていきます。
登山道は、心の“フィルター”の違いをあぶり出す鏡のような存在です。誰かが絶景に涙する横で、別の誰かは無言で岩陰に座り込んでいるかもしれない。そんな“ズレ”に気づけたとき、共感力の扉が静かに開きます。
この記事では、「共感力とは何か?」という本質から始まり、登山中に起きる心のすれ違い、そして共感力を高めるための日常の習慣までを丁寧に紹介していきます。
共感できない自分にモヤモヤしている方、他人の感じ方を受け止められるようになりたい方、そして感受性をもう一度取り戻したいすべての人へ──心を整える“登山的ヒント”を、お届けします。
同じ景色を見ても、人は同じように感じない理由

たとえば、頂上から見える雲海。感動で泣き出す人もいれば、「曇っててよく見えないね」と言う人もいます。同じ風景なのに、なぜ感じ方は違うのか?
そのカギは、「解釈」にあります。人は事実をそのまま受け取るのではなく、自分のフィルターを通して受け取っているのです。
このフィルターは、過去の体験やその時の感情、価値観、思考の癖によって構成されています。たとえば、誰かにとっては初めての登頂で感極まるような瞬間であっても、別の人にとっては通い慣れた山道の一風景にすぎないかもしれません。
あるいは、前日に寝不足だった人や体調がすぐれない人は、同じ風景に対して感動するよりも「疲れた、早く帰りたい」という感情が先に立つこともあります。
さらに、見えているものに対する意味づけも人によって異なります。雲海を「自然の神秘」ととらえる人もいれば、「単に雲が低くたまっているだけ」と感じる人もいる。
この“意味づけの多様性”が、私たちの感じ方の違いを生む根源なのです。
つまり、登山という同じ体験をしていても、人の心の中ではそれぞれまったく異なるドラマが進行しています。
その事実に気づくと、他者への見方がぐっと優しくなり、「共感する」ということの本当の意味が見えてくるようになるのです。
「事実」と「解釈」は違うという前提
事実は変わらないけれど、人の心は変幻自在。たとえば「曇り」という天気一つをとっても、「幻想的」ととらえる人と「台無しだ」ととらえる人がいます。
この違いは、感性や思考の癖によるものです。気分が落ち込んでいるときには、どんな風景も暗く沈んで見えることがありますし、心が穏やかなときには曇り空さえも柔らかく映るものです。
また、育ってきた環境や価値観も感じ方に大きく影響します。自然に親しんできた人にとっては、雲や霧は情緒をかき立てるものとして映りますが、都会育ちで自然に馴染みのない人にとっては、ただの「視界の悪い状況」としか思えないかもしれません。
どちらが正しいということではなく、どちらも“その人にとっての真実”なのです。
「事実」と「感じたこと」を区別できるようになると、自分と異なる感じ方をする他人の反応に対しても、自然と寛容になれます。
違いを否定せず、「そういう見え方もあるのだな」と受け入れる余裕が、共感力の土台をつくっていくのです。
過去の経験が“目のフィルター”になる
感動した経験、苦い思い出、心の余裕──人の見え方は、過去の体験によって変わります。
たとえば、過去に辛い山行をした人にとっては、険しい登山道は「また失敗するかも」と不安の種に。一方、楽しい思い出がある人には「ワクワクの予感」として映る。同じ道でも、心の色はそれぞれなのです。
また、過去の経験には“身体的な記憶”も含まれています。ある坂道で膝を痛めた経験がある人は、またその道に差しかかっただけで無意識に警戒心が芽生えるでしょう。
逆に、家族旅行で笑顔いっぱいの時間を過ごした山ならば、同じ場所でも温かい感情が自然とわいてきます。
つまり「道そのもの」ではなく、「そこに紐づいた記憶」が感情を動かしているのです。
さらに、登山経験が浅い人と熟練者でも、景色の見え方には差が出ます。
初めての人にとっては岩場や急坂は怖さの対象ですが、慣れている人には挑戦心をくすぐる冒険のように感じられます。
このように、登山者の“蓄積された体験”によっても見える景色はまるで別物になります。
だからこそ、誰かの感じ方が自分と違っても「なぜそんな風に思うのか?」と考えてみることが大切です。その違いに目を向けることで、より深い共感と理解のきっかけが生まれます。
登山中に起こる「心のズレ」あるある
登山中、ちょっとした会話のすれ違いや、景色の感動ポイントが合わないことってありますよね。
「あんなにきれいなのに、なぜ無反応?」とモヤっとしたり。でもよく考えてみると、それは相手が鈍感なのではなく、自分とはまったく違う“景色”を心で見ているからなのです。
人は目で風景を見ていても、心の状態や価値観によって、その映像の意味づけが変わります。
たとえば、ある人にとってはその景色が「夢だった瞬間の達成」であっても、別の人には「ただの通過点」でしかないかもしれません。
感動したくても、体力の限界で余裕がない場合だってあります。「無反応」に見える行動の裏に、実は本人なりの苦労や葛藤が隠れていることも多いのです。
また、登山は集団行動になることも多く、誰かと足並みを揃えることが求められますが、その中で「共有される感情」と「一人ひとりの感情」がずれる瞬間は少なくありません。それは人がそれぞれ違う人生を歩んできた証であり、決して否定すべきことではありません。
心のズレに気づけること、それ自体が“共感力”の土台になります。「違うことに気づけた」という視点を持つだけで、人間関係はぐっとしなやかに広がっていくのです。
登山が教えてくれる“見え方”の多様性

登山の面白さは、景色そのもの以上に「人の感じ方」の違いを知れることかもしれません。
同じ場にいながら、受け取る印象や心の動きがまるで違うこと。それは時に驚きであり、学びになります。登山は“多様な視点”を体感する舞台なのです。
たとえば、同じ山道を歩いていても、目の前の風景に感動して立ち止まる人と、早くゴールにたどり着きたくて黙々と進む人がいます。
そこにあるのは「どちらが正しい」という判断ではなく、「今、その人が何を大切にしているか」の違いです。ある人は心の癒しを求めて、ある人は達成感を求めて山を歩く。目的が異なれば、見えてくる風景もまったく違って当然です。
さらに、感じ方の違いがチーム登山に影響を与えることもあります。たとえば、ある人が「この景色すごいね!」と声を弾ませても、隣の人が「ふーん」と淡白な反応を返したら、気まずさを感じるかもしれません。でもそれは、感動の大小ではなく、反応の表現スタイルの違い。内面では静かに感動している場合もあるのです。
このように、登山という体験は、視野や価値観の多様性を受け入れる練習場でもあります。だからこそ、一緒に歩く誰かの「見え方」に寄り添おうとすることで、自分自身の感性も深まり、人との関係性もより豊かなものになっていくのです。
絶景で涙する人、疲労で見過ごす人
ある人は、山頂の景色に感極まって涙します。でもその横で、息を切らして水を探している人もいる。さらには、達成感で目を輝かせている人もいれば、登りきったことで燃え尽きてしまったような虚無感に包まれている人もいるかもしれません。
同じ場所に立っていても、その瞬間に感じるものは千差万別なのです。
この違いは、心の状態や体のコンディション、さらにはその人が背負ってきた人生の文脈によって生まれます。
たとえば、仕事でのストレスから逃れるように山に登った人と、人生の節目を迎えた人では、目の前の景色に込める意味合いがまるで違います。そしてこの違いに気づくことができれば、私たちは他人への見方を大きく変えることができるのです。
「なんで感動しないの?」「なぜそんなに泣いてるの?」と疑問に思う代わりに、「今のあの人には、どんな風に景色が映っているのだろう」と想像してみる。その姿勢が、共感力を育てる最初の一歩になります。
つまり、同じ場所に立つという体験は“共通点”ではなく、“違い”を発見するためのきっかけになるのです。人の感受性の多様さを知ることで、自分の世界もより豊かに広がっていくのです。
何を感じるかは、その人の“今”次第
感情や感じ方は、その人の“今この瞬間”の心の状態に大きく左右されます。
たとえば、仕事でのストレスを抱えて登山に来た人は、普段は意識しない風の音や空気の清らかさに心を打たれ、思わず涙があふれるかもしれません。
一方、日常が順調な人や心がフラットな状態の人は、風景を楽しみつつもそこに深い感動を覚えず、軽やかに歩を進めていくこともあります。
また、登山そのものにかける意味の重さも“今の自分”によって変化します。人生の節目に立っている人は、頂上からの景色を「新しい出発の象徴」として見るかもしれません。
逆に、何となくの運動不足解消で登っている人にとっては、あくまで一日レジャーの一コマ。目に映る風景の重みも、心の中での「意義付け」によって異なります。
人は常に「いま」という時間の流れの中で生きており、その瞬間ごとの感情、置かれた状況、抱えている思いが、感じ方に大きく影響しています。
つまり、同じ人であっても、別の日に同じ場所を訪れたとき、まったく異なる印象を受けることすらあるのです。
そのどちらも正解であり、どちらも尊い。その瞬間にその人が感じたことを、比べたり否定したりする必要はありません。
むしろ、「そう感じたんだね」とただ受け止める姿勢こそが、共感力の根底にあるやさしさなのです。
違う視点こそが、学びになる瞬間
「なんでそう感じるの?」という疑問は、実は学びの種です。その一言が出発点となって、自分の中に新しい視点が芽生えます。
違う景色の見え方を教えてもらうことで、自分の視野もぐっと広がっていくのです。それは、まるで自分では気づけなかった“心の地図”に新たな道を描き足すような感覚です。
たとえば、自分にとっては何気ない岩場が、相手にとっては過去の恐怖体験を思い出させる場所だったり、自分がスルーした小さな花が、誰かにとっては思い出の象徴だったりすることがあります。
そんな話を聞くことで、「見えていなかったもの」が立ち上がってくる感覚を得られるのです。
他者の感受性に耳を傾けることは、自分の感性を豊かにする行為でもあります。共感とはただ「わかる」と言うことではなく、「知らなかったことに気づこうとする姿勢」。
登山は、その“違い”がリアルに可視化されるフィールドだからこそ、五感と心を使って相手の感じ方に近づける貴重な訓練の場なのです。
「共感力」とは、相手の景色を想像する力
共感力とは、単なる優しさではありません。相手の立場に立つ“想像力”と、“違っていても理解しようとする姿勢”が合わさってはじめて生まれる力です。
そして、それは特別な人だけが持つ天賦の才能ではなく、誰でも訓練によって少しずつ育てることができるスキルでもあります。
共感とは、相手の感じていることをそのまま「良し」とすることではなく、自分の価値観とは違っていても一度その立場に立って考えようとする意志を持つことです。
たとえば、登山で誰かが「怖い」と言ったときに、「自分は平気だったから」と切り捨てるのではなく、「その人にとって何が不安だったのか」を思い描いてみる姿勢が、共感力の表れです。
さらに、共感には“情報”ではなく“感情”を受け取る力が求められます。たとえば「疲れた」と言われたときに、「どのくらいの距離を歩いたか」ではなく、「どれほどしんどそうだったか」「どんな表情だったか」に気づけるかどうかがポイントになります。
このような力は、登山という共同体験の中で自然に磨かれていくものです。無言で歩く時間、ペースを合わせる場面、道を譲り合う瞬間──すべてが、相手を思いやるための小さな訓練場になるのです。
共感と同調の違いを知る
「共感」と「同調」は似て非なるもの。同調は「私も同じ」と合わせることで、一見すると調和があるように見えますが、本質的には自分の感情を他人のものに寄せる行為です。
一方、共感は「あなたはそう感じるんだ」と相手の感じ方をそのまま認めること。その背景にある体験や価値観にまで思いを馳せる力が求められます。
たとえば、登山中に「この岩場、怖いね」と誰かが言ったとき、自分がまったく怖さを感じなかったとしても、「ああ、私も怖いよ」と無理に同調する必要はありません。
むしろ「どうして怖く感じるのか?」と関心を持ち、その人の視点に立ってみることが、真の共感につながります。違いを埋めるのではなく、違いを尊重しながら“寄り添う”という感覚です。
登山ではこの違いが頻繁に試されます。歩くペース、景色の受け取り方、疲労の感じ方――同じルートを歩いていても、それぞれがまったく異なる体験をしています。
そのとき、無理に同じ感情を共有しようとするのではなく、相手の感じ方を大切にしながら理解を深める。それが、登山が教えてくれる“共感力”の真髄なのです。
「見えてない景色」に耳を傾ける
自分が見ていない風景を、相手がどう感じているかを聞く姿勢。それが共感力の実践です。ただ見るだけではわからない“心の風景”に耳を傾けるには、相手の話に丁寧に向き合う意識が欠かせません。
たとえば、「あそこ怖かった」と言われた場所を、自分は何も感じなかったとしても、「そうだったんだね」とまず受け止めることが大切です。
そのとき、「なぜ怖いと思ったのか」「どんな風に感じたのか」を聞いてみることで、相手の内面の世界に一歩踏み込むことができます。
ただ同意するのではなく、「あなたの感じた世界を知りたい」と思うことが、共感力の本質につながっていきます。
このような対話の積み重ねが、他者との信頼関係を築き、価値観の違いを受け入れる土壌を育ててくれます。
たとえ自分がその感情を実感できなかったとしても、「見えていなかった景色が存在する」ことを認めることが、共感のはじまりなのです。
心の余白があると、共感しやすくなる
心がパンパンに張りつめていると、他人の感情を受け入れる余裕がなくなります。思考は防御的になり、すぐに判断したり、否定的な感情が湧いてしまったりします。
まるで、風景が色あせて見えるように、人の言葉や感情も鈍くなってしまうのです。
逆に、自分に余白があるときこそ、他人の景色に触れたときに「ああ、そう感じるんだな」と自然に共感できるもの。心にスペースがあれば、違いを許容するクッションのようなものが働いて、「それもありだな」と思えるようになります。
その“余白”は、無理に作り出すものではなく、静けさや自然とのふれあいによってゆっくり取り戻せるものです。
登山は、その“余白”を回復させる手段にもなります。標高が上がるごとに日常から距離ができ、風の音や鳥の声に耳を澄ませているうちに、心の緊張がほどけていく感覚を味わえる。
無言で歩く時間が、内面の整理となり、気づけば他人の感情に自然と寄り添えるような感覚が戻ってきている。
そんな“心のリセットボタン”として、登山が持つ力は計り知れません。
共感力が育つ、登山の3つの場面

登山は、ただ体力を試すだけでなく、共に歩く仲間との関係性や内面的な成長も促す場です。険しい坂道や不安定な岩場を乗り越える過程には、自然と人と人とのつながりが浮き彫りになる瞬間が多く存在します。特に“共感力”という視点で山の景色を眺めると、そこには日常では見逃しがちな「他者を思いやる気づき」が散りばめられています。
たとえば、誰かのペースに合わせて立ち止まることや、黙って隣を歩くだけで安心感を共有できること、無言のまま水を差し出す優しさ。こうした小さな行動の積み重ねが、共感の種を育てていきます。登山は、体力勝負に見えつつも、実は“心のやり取り”が静かに行き交うフィールドなのです。
また、登山では突発的な天候変化や予期せぬトラブルも起こりやすく、判断力と同時に「相手の気持ちを汲み取る力」が求められます。自分が余裕のあるときに誰かを励ますこと、逆に不安なときに支えられる経験を通して、互いの立場の違いを受け入れる素地が育まれていくのです。
特に現代のように、人との関係性が希薄になりがちな社会において、登山は“人と心で向き合う”ための絶好のレッスン。自然の中だからこそ得られる本質的な気づきが、共感力という目に見えない力を静かに育ててくれます。
歩調を合わせる登山で「他人のしんどさ」に気づく
登山では、速く歩ける人が先に行ってしまえば、遅れている人の不安や苦痛は増すばかりです。体力差は誰にでもあるものですが、それに無頓着な行動は、仲間の孤独感やプレッシャーを深めてしまうこともあります。だからこそ、相手の歩調に合わせるという行為は、単なるマナーではなく、「今、相手はどれくらい辛いか?」に目を向ける共感の実践でもあるのです。
ペースを合わせるというのは、言い換えれば「相手の立場に一度立ってみること」。息が上がっている人、足取りが重い人の隣に寄り添い、「一緒に歩くよ」と態度で示すだけで、相手の心は軽くなります。それは何気ないように見えて、深い安心感をもたらす行為です。
特に自分が元気なときこそ、相手の様子に敏感であることが大切です。人は余裕があると、つい自分のペースで進みたくなりますが、そのときこそ「誰かのしんどさ」を思い出す視点が求められます。相手のつまずきや小さなため息に気づける感性こそ、共感の真髄です。
「一緒に歩く」ということが、単に物理的な動作ではなく、心を通わせる行為になる。その小さな歩み寄りの中に、人と人とをつなぐ確かな共感力が宿っているのです。
「引き返す勇気」がもたらすチームの絆
誰かの体調が悪くなったとき、山頂を目前に「引き返そう」と言えるかどうか。それは、“全員で登頂”という一体感や目標達成の歓喜を手放す選択であり、決して簡単な決断ではありません。しかしその一方で、それは「一人の弱さを見過ごさずに尊重する」という非常に強い“人間としての選択”でもあるのです。
登山においては、目標を達成することが全てのように思われがちですが、本当に大切なのは「全員が無事に帰ること」。その前提に立ったとき、誰か一人の異変や苦しさに気づき、「もう一歩進めるかもしれないけれど、ここでやめよう」と決めることには、大きな思いやりと覚悟が求められます。
ときに「自分のせいで引き返させてしまった」と責める人もいます。だからこそ「いいんだよ」「君のことが大事だから」と言える仲間の存在が、相手の心を支え、信頼を深めていきます。そのときの“気持ちの一致”は、たとえ山頂に立てなくても、それ以上の絆として残るのです。
無理に突き進むよりも、相手の限界に共鳴する選択をしたとき、そこに生まれるのは「チームの成熟」。それぞれの価値観を尊重し合える関係こそが、何度でも一緒に山を登りたくなる“信頼”を築いていくのです。
「沈黙」も共有できる安心感
言葉がなくても、同じ空間で安心していられる関係性。それは表面的な会話よりも深い次元でのつながりを感じている証です。登山中に長い沈黙が続くことは珍しくありませんが、それが気まずさではなく「ただ一緒にいること」の心地よさへと変わっていくとき、そこにあるのは確かな信頼と共感の空気です。
沈黙はときに、最も豊かなコミュニケーションになります。景色に見とれている時間、息を整えている時間、言葉にならない感動を共有している時間。こうした沈黙は、“相手に言葉を求めない”という深い尊重の表れでもあります。無理に話そうとせず、互いの存在をそっと受け止める。この静かなやりとりが、関係性にあたたかさと深みを与えるのです。
「言葉がなくてもわかり合える関係」を山の中で経験することは、日常生活にも深い示唆を与えてくれます。会話に頼りすぎず、相手の気配や空気を感じ取る力が養われれば、人との距離感はより柔らかく、しなやかに変化していきます。登山の沈黙が教えてくれるのは、共感とは“言葉の数”ではなく、“存在をどう受け止めるか”にあるということなのです。
人との違いを受け入れる第一歩とは?

人と自分の“感じ方の違い”を受け入れるには、まずその違いに気づき、否定せず観察する力が求められます。人は、自分の感覚や常識を基準にして物事を判断しがちですが、そこから少し距離を取って「相手にはどう映っているのか?」を想像することが、共感の入り口になります。
登山では、その第一歩を実践できる場面がたくさんあります。たとえば、同じ景色を見ても「きれい」と感じる人と、「怖い」と感じる人がいる。あるいは、険しい坂を「やりがい」ととらえる人と、「無理」と感じてしまう人がいる。それらはどちらが正しいという問題ではなく、「その人がどう感じたか」に着目することが大切なのです。
さらに、登山中は他者の反応がよく観察できる環境でもあります。息を切らしている人、無言になる人、テンションが上がる人。そうした反応の違いに敏感になり、「なぜこの人はこう感じるのか?」と想像してみる。そうすることで、自然と“感じ方の多様性”を受け入れる柔軟性が育まれていきます。
共感の第一歩は、「自分と同じであることを期待しない」ことから始まります。その姿勢が、日常においても人との関係をより穏やかに、そして豊かにしてくれるはずです。
「自分と違う」を否定しない訓練
「なんでそんなふうに思うの?」「それって普通じゃないよね?」という言葉の裏には、無意識の否定があります。こうした言葉は、自分の基準を無自覚に相手に押しつけてしまう典型的な例であり、気づかぬうちに相手の感情を否定していることに繋がります。誰かの感じ方に疑問を抱くこと自体は自然な反応ですが、それを「間違い」と決めつけず、「そう感じる理由があるはずだ」と一歩立ち止まる姿勢が大切です。
登山では、感動する場所も怖いと感じるポイントも本当に人それぞれです。ある人は険しい岩場にロマンを感じ、別の人は同じ場所で不安や恐怖を抱く。その背景には、過去の経験、体力の差、心の状態など、さまざまな要素が影響しています。そのことを前提に、「違って当たり前」と思えるようになることが、共感力を高めるための入り口になります。
相手の感じ方にまず「違いがあること」を前提に接する練習は、共感力を高める最短ルートであると同時に、人との衝突を避ける大きな知恵でもあります。自分と違う感情や反応に出会ったときに「違和感」ではなく「学び」を見出せるようになれば、人生はより豊かで柔らかなものになっていくのです。
正しさではなく「背景」に目を向ける
登山道での判断や反応に「正しさ」を求めすぎると、他人の行動が理解しづらくなります。「自分ならこうするのに」「普通はこうだよね」という思い込みがあると、つい相手の判断に対して批判的な目を向けてしまうからです。しかし、そうした行動の背後には、その人なりの理由や経験、感情が存在していることを忘れてはなりません。
たとえば、道を引き返す判断をした人がいたとして、その決断を「慎重すぎる」と捉えるか、「冷静な判断」と捉えるかは、見る側の姿勢に大きく左右されます。大切なのは、「なぜそうしたのか?」という背景を想像しようとすること。そうすることで、たとえ自分の考えとは違っていても、相手の判断や感情に対して理解や敬意を持って接することができるようになります。
「その人にはそういう理由があるんだ」と思えると、イライラや不満も少し和らいでいきます。それは、感情を押さえ込むのではなく、視点を変えることで自然に落ち着きを得るアプローチです。登山のように極限状態に近づく環境では、こうした“背景を見る目”が特に重要です。人は皆、違う地図を持って山を登っている。そのことに気づけたとき、私たちは共感力を一段深く理解できるのです。
比較しない、競わない、決めつけない
「自分の方が速く歩ける」「自分の方が詳しい」といった無意識の比較は、共感を遠ざけます。こうした比較は、優越感や劣等感といった感情を生み、知らず知らずのうちに人との距離を広げてしまいます。登山において、速度や知識の多さを競うことに意味はありません。むしろ大切なのは、“誰かより優れている”ことではなく、“互いを尊重して山を楽しむこと”。
誰かがゆっくり歩いているとき、「もっと頑張ってほしい」と思うより、「今のその人のベストなんだ」と受け止められるか。自分の知識を披露したくなったとき、「これは相手の役に立つだろうか」と立ち止まって考えられるか。そうした些細な場面にこそ、共感の種が宿っています。
また、比較が生むのは優劣の意識だけではなく、「正しさ」への執着でもあります。「こうあるべき」という思い込みを手放すことで、相手のスタイルやペースにも心を開けるようになります。山では、誰もが自分のペースで進み、それぞれの景色を見ているのです。
決めつけをやめて観察することから、真の共感が育っていきます。そしてその視点は、登山を離れた日常にも応用できます。人と比べず、ありのままを尊重する姿勢は、人間関係を豊かにし、人生の景色をより穏やかで美しいものに変えてくれるのです。
共感力を高める登山以外の習慣

登山だけでなく、日々の生活の中でも共感力は育てることができます。むしろ、共感の力は日常の中でこそ真価を発揮します。通勤電車で誰かの不機嫌そうな表情を見たとき、友人が沈黙している場面、レジで店員さんが少し不器用な対応をしたとき──そんな些細な瞬間にも、“他人の見え方”を想像する機会はあふれています。
意識すれば、私たちは日常の中で何度も「なぜこの人はこう感じているのか?」と考えることができます。たとえば、感情的に話す人の言葉にイラッとしたとき、その奥にある不安や疲労を想像してみる。あるいは、沈黙する誰かに対して「何かあったのかも」とそっと寄り添ってみる。そんな小さな想像の積み重ねが、共感力という“見えない筋肉”を少しずつ鍛えてくれるのです。
日常のあらゆる場面を“共感のトレーニング場”ととらえることで、私たちはより優しく、より深く他人とつながる力を育てていけます。
読書は他人の人生を歩く体験
本を読むことは、自分以外の人生を追体験することです。とりわけ小説や手記には、他人の感情や思考のプロセスが豊かに、そして細やかに描かれています。そこには、現実世界ではなかなか体験できない視点や感性が詰まっており、読者はまるでその人の心の中を旅しているかのような感覚を味わうことができます。「こんな風に考える人もいるんだ」「こんな出来事にこんなふうに反応する人もいるのか」といった気づきは、自分の“共感の引き出し”をどんどん増やしてくれるのです。ページをめくるたびに、自分とは違う価値観や人生観と出会うことができ、それが共感力という目に見えない力を磨く栄養となります。本は、静かで確かな共感のトレーニング場でもあるのです。
日記で自分の心のクセを知る
自分の感情の動きを客観的に見る力も、共感には欠かせません。その力を養う手段として、日記を書くという習慣は非常に効果的です。毎日の出来事や感じたことを文章にすることで、自分がどんなときに喜び、どんなときにイライラし、何に心が揺れ動くのかが次第に見えてきます。こうした記録は、単なる振り返りにとどまらず、自分の偏りや反応の癖を冷静に見つめ直す鏡のような役割を果たしてくれるのです。そして、自分自身の心のクセに気づくことができれば、他人に対しても無意識のジャッジをしにくくなり、一歩引いた場所からその人を見守る視点が育ちます。たとえば、「あの人はなんであんな態度なんだろう?」と感じたときも、自分の記録と照らし合わせて「自分も以前、似たような状況で同じような反応をしていたかもしれない」と思い至ることで、相手への見方が少し変わってくるはずです。日記は、自分を理解するためのツールであると同時に、他人への共感力を育てる土台にもなりうるのです。
対話よりも“聞く力”を意識する
つい「話すこと」にばかり意識が向きがちですが、本当に共感を深めたいなら、“聞く力”を磨くことが欠かせません。相手の話を途中で遮らず、あいづちを打ちながら丁寧に受け止める。その姿勢は、相手に「この人は自分を理解しようとしてくれている」という安心感を与えます。特に悩みや葛藤を抱えている人にとっては、「否定せず、耳を傾けてくれる存在」がいることが、どれほど心の支えになるか計り知れません。
さらに、“聞く”という行為は、相手だけでなく、自分自身の感性を広げる入り口にもなります。人の思いにじっくり耳を傾けることで、自分の知らなかった視点や感情、価値観に触れることができ、それは新しい景色に出会うことにもつながります。聞くことは受動的な行為のように思われがちですが、実はとても能動的で、意識を向ける練習にもなるのです。
言葉の裏にある本音や沈黙の中にある気配りまで汲み取ろうとする“深い聞く力”を養うことで、共感力は確実に磨かれていきます。そしてその力は、人間関係をよりあたたかく、信頼に満ちたものへと変えていく礎になるのです。
感受性が鈍っていると感じたときの処方箋

最近、何を見ても心が動かない──映画を観ても感動できず、好きだった音楽もただのBGMのように聞こえる。そんなときは、心のアンテナがくたびれてしまっているサインかもしれません。現代社会は常に情報と刺激にあふれていて、私たちの感受性は思っている以上に摩耗しがちです。だからこそ、何も感じられない自分を責めるのではなく、「今は感受性の回復期間なんだ」と受け入れることが大切です。少し立ち止まり、自分をいたわる時間を意識的に確保しましょう。静かな時間、自然とのふれあい、深呼吸ひとつでも、心の感度は少しずつ戻ってきます。
自然に触れることが心の感度を上げる
自然の中に身を置くだけで、日常のざわめきから少しずつ切り離され、五感がゆっくりと研ぎ澄まされていくのを実感します。たとえば風が頬をかすめる感触、木々の揺れる音や土の香り、空の色がわずかに移ろう様子──それらひとつひとつが、心の奥にじんわりと届き、知らぬ間に眠っていた感受性をそっと揺り起こしてくれるのです。さらに、そうした変化は人工物に囲まれた日常ではなかなか得られないものであり、自然のもつ“浄化力”のようなものを改めて感じさせてくれます。登山という行為は、ただ体を動かすだけでなく、このような感覚をまるごと味わう時間でもあり、まさに心と身体を再起動させるための代表的な手段と言えるでしょう。
スマホを置いて“今ここ”にいる訓練
デジタルな刺激にさらされ続けていると、私たちの感情は徐々に反応しづらくなっていきます。通知音、SNSのスクロール、絶え間ない情報の波──それらが無意識に心の感度を摩耗させてしまうのです。そんなときは、意識的に“今この瞬間”に立ち戻ることが大切です。たとえば、登山中にスマホの電源を切り、ポケットにしまってみましょう。そして深呼吸をして、目の前の空の色、葉っぱが風で揺れる音、鳥の鳴き声に集中してみてください。最初はぼんやりとしか感じられなくても、次第に目や耳、肌が自然の情報をキャッチしはじめるのを感じるはずです。五感が開いてくると、それに呼応するように、感情のアンテナもじわじわと動き出します。これは感受性が再起動する感覚であり、ただスマホを手放すだけで得られる大きなギフトです。短時間でも構いません。「何もしない時間」「ただ感じる時間」を、自分に与えてみてください。
「感動できない自分」を責めない
感受性が鈍っている自分を責める必要はありません。それは決して“心が鈍くなった”わけではなく、むしろ過剰な刺激から自分を守ろうとしている防衛反応なのです。感情が反応しにくいときは、心が「一度休ませてほしい」と静かにサインを出している状態。だからこそ、そんなときは無理に感動しようとせず、自分の内側の声に耳を傾けてみてください。たとえば自然の中に身を置き、風の音や木漏れ日の揺らぎにただ身をゆだねる。何かを“感じなければ”というプレッシャーを手放すことで、心は少しずつ、じんわりと目を覚ましていきます。ある瞬間、ふとした光景──たとえば空に浮かぶ雲の形や、草の匂い、鳥のさえずり──に心がそっと揺れることがあります。そのささやかな揺らぎこそが、再び感受性を開くための確かな入口になるのです。
記事全体の総括:見えている世界は一つじゃない

共感力とは、他人と同じように感じることではありません。
むしろ「違う見え方」をしていることを前提に、その背景に思いを巡らせる力です。
登山は、その“違い”をリアルに実感できる場であり、歩調、判断、反応、感情がすれ違う瞬間こそが共感の種となります。
自分と違う誰かの感情や感じ方に出会ったとき、「なぜ?」ではなく「そうだったんだね」と受け止める。
そんなふうに人の景色を受け入れられたとき、人生は少しだけやさしくなります。
感じ方の違いに迷ったときこそ、登山を思い出してください。そこにこそ、共感力の原点があるのです。
この記事を通して見えてきたのは、「同じ景色を見ても、人はそれぞれ違う感じ方をしている」という当たり前だけれど見落としがちな事実でした。
登山という行為は、まさにその違いを“可視化”してくれる舞台。感動したり無言だったり、立ち止まったり急いだり——人の心の動きはひとつとして同じではありません。
共感力とは、そうした「違い」を理解しようとする姿勢から始まります。それは“同じように感じること”ではなく、“違いを違いのまま受け入れる力”。その力は、経験や訓練、そして自然との対話の中で少しずつ育っていくものです。
登山の道中で、無言の誰かを思いやったり、恐れを口にした誰かの心に寄り添う。そのひとつひとつの場面が、共感の土壌を豊かにしていきます。
そしてこの感覚は、山を下りた後の日常にも、やさしい余韻として残り続けるでしょう。
感じ方の違いに戸惑うことがあったら、
「この人には別の風景が見えているのかもしれない」
と思い出してみてください。
きっとその瞬間から、見えてくる世界は少しだけ優しく、そして広くなるはずです。
⛰ 登山から学ぶ人生哲学シリーズ
山の一歩は、人生の一歩。
登って、迷って、引き返して──すべての体験に意味がある。
「登山」というレンズで、人生の選択や心のあり方を見つめ直してみませんか?
📚 これまでのシリーズ一覧
1️⃣ 登山が教えてくれる「他人と比べない強さ」
うさぎとカメが山を登ったら?──“競わない”という新しい強さに気づく物語
2️⃣ 焦る心にブレーキを|登山で学ぶ「マイペース思考術」
順位ばかり気にして疲れていませんか?登山的マインドが心を整えます
3️⃣ 「登れなかった日」に意味がある|山がくれたリセットの教え
失敗や引き返しもまた、登山の一部──再出発への新しい視点を
4️⃣ 人生の迷い道に立ったら|分岐点と向き合う登山の知恵
進むべき道が見えないとき、登山者はどう考えるのか?
5️⃣ 一歩が重たい時こそ、山を思い出して|継続と心の筋トレ
やる気が出ない…そんな日も、前に進むヒントは山にある
6️⃣ 「下山」という選択が人生を救うこともある
無理して登らなくてもいい。降りる勇気が未来を変える
7️⃣ 風景は同じでも、感じ方は違う|登山と共感力の話
人それぞれ違う“景色の見え方”を、受け入れていく力とは?
8️⃣ 道に迷った先でしか見えない景色がある
遠回りも悪くない。迷った先でこそ得られる“気づき”がある
9️⃣ 天気が読めない人生をどう歩くか|登山に学ぶ柔軟性
晴れの日ばかりじゃない。それでも進める工夫と心構えを
🔟 ゴールは人の数だけある|“頂上信仰”から自由になる
“頂上”だけが正解じゃない──あなたにとってのゴールとは?